40歳になってもいろんな人からアドバイスがもらえるのはありがたいことです。
先日、こんな話がありました。
Aさん:「中尾さんは、ひきこもりの人はどうあるべきだと思う?」
中尾:「うーん。何かあった時に連絡してもらえる関係ができてればいいかな」
Aさん:「え?こうあるべきってビジョンがあるから、それに向かって活動してるんじゃないの?」
中尾:「ひきこもりの人がこうあるべきってビジョンは特にないかな・・・こうなって欲しいなぁって程度のことはあるけど、そうならなかったからって別に気にしないし」
酔っ払っていたこともあって、こんな調子で自分の考えがうまく説明できなかったわけですが・・・。
人が生きることに「こうあるべき」なんてものはない
当事者が生きていくことに「こうあるべき」なんて、どうして他人がいえるでしょう?
当事者の親にだって「こうあるべき」とは、本人にいえないと思います。
少なくとも僕は人様に「こうあるべき」と諭すほど偉い人間ではないです。
自分の生きる道は自分で決めればいい。
その結果どうなっても、それは自分が責任を取ること。
僕は決めるための情報を伝えたり、手助けができればと思ってます。
その中で、親がいなくなった後のことを決めておくのをお勧めはしますけど。
それも「当事者がどう生きるかを決めやすい環境」を整えておくという意味で、お勧めをしています。
当事者を信じているのか・・・・
「君、今のままでいいわけないだろう?外に出て働こう」なんて、当事者は親から何万回もいわれているはず。
本人もそんなことわかっている。
そのことを口にするのは、当事者を信じていないのでは?
「行動しないのは、わかっていないことと同じだ」
それは正論。でも正論を振りかざして状況が変わるなら、今の状態にはなっていない。
わかっていてもできない理由と、当事者がどうしたいかに注目したい。
僕自身が「こうあるべき」と思うビジョンは・・・
僕が僕自身に対して「こうあるべき」という理想像のようなものはあります。
最初の質問はそういう意味だったのかなぁ?
このホームページの法人概要にも書いていますが
「持続可能な社会を築くため、個人が、地域が、社会が持つ可能性を信じ、広げる活動をする」
可能性を信じたいんです。
当事者だって「働きたくない」とはいっても、本当は今のままでいいと思っているわけではないと信じたい。
本当はやりたいことがあってもそれができない理由があるんだと信じたい。
当事者が「社会的欲求」のようなものを話せる安心、安全な関係を築いていくのが大事です。
だから「どうあるべき?」と問われれば「ひきこもっている人の可能性を信じるべき」と答えるかなぁ。
ひきこもり支援というのは、人間の生き方と対峙しています。
そこに正解などないからこそ、本気で向き合っていきたいと思うのです。